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更新日 2018年8月15日

米 村 研 究 室


個人的研究背景
                             米村 重信


子供の頃と動物

 そもそも動くものに興味がありました。すなわち動物ですね。動物の図鑑というのが宝物で、よく見るので壊れてきて、また同じものを買ってもらった記憶があります。字が読めるようになってからもよく読んでいたので、小学校の高学年近くまでは何度も読み返したでしょうね。
 その頃テレビでは「野生の王国」というような海外の野生動物の番組を夜の7時から放映していて、そんなものを必ず見ていましたから、アフリカのサバンナの動物などにやたら詳しくなり、幼稚園に通っていた頃の将来の夢は「動物園の園長」というものでした。個体としての動物がまず好きでした。
 町中で育っているのでまわりにそれほどの自然はなかったのですが、それでも庭に出ては何かと石をひっくり返して、「うむ、やはりこのとぐろを巻いたやつが必ずいるな」などと生き物を探すのも好きでした。早春にはヒキガエルがうちの池に卵を産みにくるのでそれをもれなく捕まえて、兄弟でカエルのジャンプ大会をさせたりしました。そのため、数日はヒキガエルを10匹くらいは部屋の中で大きなたらい等に入れて飼っていました。今思えば、よく母親がそんな汚いことを許したものだと思います。縁日でヒヨコを買ってきて育てたい、と言うと、やはり母親が庭に鳥小屋を造ってくれました。いわゆる刷り込みがあってヒヨコは私の後について走るようになるのですが、そのうち飛べるニワトリにしたいと思うようになります。羽根が生え始めた頃から、放り投げては羽ばたかせて手で優しく受け止めるということを繰り返しているうちに、自力で屋根まで届くくらいに飛べるようになってきました。しかし、そのくらい成長したところで、夜に近所の猫が網を破って若鶏を食べてしまいました。現在でも猫は愛玩の対象ではなく、闘うべき野生動物のように思っています。
 小学校の時には「ドリトル先生物語全集」という12巻ある本を読んだことにも影響を受けました。ドリトル先生は動物語を話せる医者ということで、やっぱり好きというだけでなくしっかりした知識を持っているのはかっこいいと思ったのかもしれません。

科学が関わってくる 
 中学では友達に誘われて模型飛行機に熱中しました。うまく飛ぶ飛行機を作る、ということです。ホビー雑誌で勉強しながらなのですが、流体力学からの原理や材料の選択、合理的な設計、木材の加工技術から接着、塗装等の技術、さらにはエンジンの原理など、もの作りにはいろんなことが関わっていると実感しました。この部分は全く生物とは関係ありません。しかし、生物もまたさまざまな物理的な決まりに基づいて活動しているのは確かなはずです。
 高校では生物部に入っていて、生物実習室が面している裏庭に鳥のエサ台を作ったり、さらにその近くに人の入れる観察小屋を作ったりして、野鳥の行動の観察等をしていました。飛行機からの関連では鳥の飛行の原理などにも興味を持ちました。
 そのころ平凡社から「アニマ」という動物関連の雑誌が出ており、大学の生物学科の先生等が結構記事を書いていました。ヤゴが水圧であごを伸ばして餌を捉えるとか、あるいはコウモリのエコロケーションにおける周波数の変動とか。そのようなものを読むと、動物の活動の仕組みを明らかにするという、生理学的なことにかなり興味が出てきました。やっぱ、明らかにするってすごいよね。なるほどそうなのかとわかると、カタルシスがあるよね。また理科の授業から生物がおもしろいと思ったことはそれまで全くなかったのですが、高校でDNAが出てきた時は、分子レベルで実験をして確実に理解する、というやりかたを見て痛快に思いました。

進路
 私は高校の時には実は放送部にも入っていて、アナウンスの訓練などもし、アナウンサーにもなりたいなという気持ちがありました。ま、結局やりたいこと、おもしろいことが直接できそうな(その方面はどのようなものかを教えてくれる人もなく、あまり根拠なく思い込んでいたのですが)、理系の生物学を志望することにしました。東京に住んでいたのですが、親は地方に行かせるお金はないのだと言うので、東京の国立大学で生物ができそうな、東京大学に何とか進みました。その間には、やりたいことはあるのだが、成績もよろしくないし、将来に希望が持てないから死んでしまおうかと考えたことも実際にありました。さすがにその時はその気持ちでずるずる行くのはよくないと判断し、腕組みをして1、2時間頭の中をぐるぐるさせて考えました。ま、できなくてもチャレンジしている自分の姿に満足するか、だめだったものが、少しでもものになるようなことがあれば、おもしろいじゃないか、とポジティブに考えることを結論にしたのです。
 生物学をやるつもりで入学したのですが、入学後の成績で志望する専門の学科に行けるかどうかが決まるということです。なんとなく、その専門に進めば、それを仕事にすることができるのだろう、と純粋に信じていました。仕事にできるかどうかより、自分がそれに飽きてしまうかどうかの方が気になりました。1年生の冬にたまたま友達が誘ってくれて、理学部の附属の臨海実験所に2日程泊まる日程で遊びにいったことがあります。ウニの発生を見るんだよ、という言葉に乗り、2日程の間に飽きるようならこの道に進んでも飽きるんじゃないかな、と試すつもりでした。結局は、ただの正常発生でもおもしろいのなんの、全然飽きませんでした。進学が成績で決まるというのも、まあ、困ったのですが、なんとか理学部の生物学科、動物学専門課程に進むことができました。それぞれの学科について進学者が内定してから、翌年の参考のために最低点(それぞれの持ち点はそれまでの成績の平均点)を出すのですが、私の点が、その公表された最低点よりもなぜか0.1点低かったというのは内緒です。そういうわけで、教養学部に在籍していた2年間はいい成績を取らないと大学に入学した目的が果たせない、と結構プレッシャーがありました。
 しかし、おもしろい講義というのはそんな時にもいくつかあり、ワクワクできました。実際のところ、生物学の講義ではそれほどワクワクはしませんでした。最もおもしろかったのが、「工学」と「日本史」、それからドイツ語でした。「工学」はおそらく、工学部に大半が進む「理I」の学生たちのために専門の香りを嗅がせたり、あるいは進路選択の一助のためなのか、工学部の先生が入れ替わり行っていたものです。私は生物が一番おもしろいとは思うものの、もの作りには格段の敬意を払っていて、「工学」は本当に大学でなければ聞けない、もの作りの話でした。勝部領樹のNHK特集の内容を毎週、実際の現場の人が話してくれるような興奮がありました。とはいえ、具体的には思い出せません。唯一ある思い出は、土木の先生が薦められた本、「少国民のために」シリーズ「トンネルを掘る話」岩波書店、を読んだことです。当時、おそらく1979年。その先生が50-60歳とすると生まれは1919-29年。トンネルを掘る話は1940年の刊行。11-21歳ころに読んだということになりますね。戦後ずっと経って生まれた私たちにその本を薦めるということは、その先生が志を立てることに大きな影響を与えた本に違いないということです。私は是非その本が読みたくなりましたが、何しろ古く、当然絶版。調べると国会図書館ならあるはずということ。だからその本を読みに国会図書館に行きました。手続きをして待っていると特別な部屋で読ませてくれます。274ページありますが、子供向けの大きさの活字でもあり、感動して読めました。これももはや古い話かもしれませんが、NHKのプロジェクトXで使われるような話です。「工学」の試験の時に、「トンネルを掘る話」を読んで感動したことを書き付けておいたことは言うまでもありません。今回、ネットで検索したら、何と土木学会図書館 戦前土木名著100著というサイトで読めるということがわかりました。http://library.jsce.or.jp/Image_DB/s_book/jsce100/htm/097.htm
 もう一つの日本史。こちらは義江彰夫先生という方で、日本史をこういう見方で捉え直していくというエネルギーが感じられると同時に、生物学というわけではないのですが、研究者の態度として大変尊敬できたのです。「私も皆さんも学問をするという意味では全く同じ立場です」ということを言われました。どの学生が考えていることにも大変重要なことが含まれているかもしれない、いつでも教えを乞う準備がある。学問に対しては謙虚であり、身分や名声などは関係ない。「こういうセリフが聞きたかったんだよ!」としびれました。
 最後は語学のドイツ語ですか。おそらくドイツ語だからおもしろいわけではないのでしょうが、英語以外の外国語で英語との比較等がおもしろかったですね。さらに文法を担当した先生が、ご自分でも辞書を作っていらして、また学生の疑問に答えることを一つの生き甲斐の様に感じていられる方でした。講義では私がいくつも質問をして、先生は(千石 喬)いつも丁寧に答えて下さいました。最後の講義の際に仰った言葉は以下の通り。「質問は生涯にわたって受け付けます。」

動物学教室
 この動物学教室で講義や実習を受けた2年間は、やはり素晴らしい青春だったと思います。少なくとも大変おもしろいと思える講義がありましたし、進学してすぐの3年生での実習がなんともおもしろい体験でした。アメリカザリガニをスケッチさせたりします。またラットのいろいろな組織をパラフィン包埋して切片を作製し、染色して、これまたスケッチします。今のカリキュラムではその期間は短縮されているかもしれません。自分の過去は悪く思いたくない、美化したいという意識も含まれているでしょうが、このような必ずしも最先端の技術を使ったりしなくても、自分が生き物に本当に興味があるかどうか、それを楽しみながら確認する作業となり得ていたように思います。実験もできましたね。なぜか助手の先生が、「アリジゴクを捕まえて、巣を作らせて実験せよ」と課題を出されました。このように、「材料を与えて、おもしろいことがあれば、研究してみよ」、というのもその時代だからできたことでしょうか。とにかく、そう言われて、いっぱしの研究者を志す者として燃えないはずはないですね。実習で習得した切片作製を行う者、全くそれとは関係なく自分の興味に従って考える者、過去の文献を調べ尽くすために図書館にいる時間の長い者。研究者といっても、みんながみんなアリジゴクに興味を持つわけではないはずで、つまらないと思った人もいるのでしょうが、私はそもそも巣を作る(蛹を作るというような一回限りの物でなく、実験可能な行動)というのがおもしろいと思ったので、興味の向くまま、昔の博物学者的に調べました。基本的な計測(サイズ、重さ、反応時間等)をし、カメラと三脚を持っていたので(大学にあるものではなく、個人の物、得意技を使うということですね、もともとは鳥の観察、写真撮影用の物)、それで巣を作るところ等を、今で言う、タイムラプス撮影をしました。もちろん、時間を計って、自分でシャッターを押します。この時のレポートは論文というわけではありませんが、読める形にしてあります
プロフィール)。

 講義では生理学の講義にとても強く惹かれました。また脊椎動物学というのがあり、そこでは偶蹄類とか奇蹄類とか小さい頃図鑑でよく読んだことが始めて講義に登場し、感慨に耽りました。

大学院進学
 大学に入学する前は大学を卒業すれば、勉強したことを専門とする職業に就けるのではと何となく考えていたのですが、どうやら研究を仕事としようとすれば、大学院に進学してさらに勉強しなくてはならないということが入学後すぐにわかりました。ここで実際の細かい研究分野を決めるということになります。具体的にはどの先生の指導を受けるかということです。個体としての動物に興味がもともとある。動物が動くことにもかなり特別な興味を持っている。実験をして解き明かすということに最も深い知的興奮を得るようだ。こんな感じでした。実際に動物学教室に進む前には動物行動学を少々勉強していました。「刷り込み」を発見し、ノーベル賞も取ったコンラート・ローレンツの著作等も読んだものです。このような行動学が私の最も小さい時からの強い興味を活かせる分野かとも考えました。ただ、その時は生意気なようですが、「『刷り込み』など本当におもしろそうなことはすでに報告されていて、ノーベル賞すら与えられている分野だなあ、それでもとてもおもしろいのにまるで研究されていないというような事柄があればいいが、全く思いつかないなあ、それに実験をして分子レベルから理解しようとするにはちょっと個体の行動は遠すぎる感じがするな」と考えて、そちらの方へ進むのは止めました。 結局は前に述べた、三崎の臨海実験所で見た、ウニ胚の発生における原腸陥入の様子を捉えた走査電顕の写真に惹かれて、形態形成運動の仕組みを明らかにしたい、というような気持ちで臨海実験所に行くことにしました。この大学院の入学の試験まではまともな勉強が必要でしたね。4年生の夏休みは本当に受験勉強をやっていました。当然語学もあり、出身高校に行って授業を受けたことのある英語の先生に英作文等を見てもらったりした記憶があります。その先生もよく見てくれたものです。今にして思えば卒業してからも頼ってくるのが多少うれしかったのかもしれませんね。

大学院修士課程

さて、研究室は三崎の臨海実験所であり、神奈川県三浦市にあります。自宅から通うには少々遠すぎ、実験所と10 m程度しか離れていない宿舎に大学院博士課程の山口先輩と住むことになりました。大正時代にできた木造の建物で、天井にはミノカサゴの透かし彫りがあったりして、文化的にも価値があるということで三浦市から人が調査にやってきたりしたほどです。そのようなところなので、石油ストーブの使用ができませんでした。電気ストーブはOKなのですが、天井も高いし、部屋も広いので暖まるほどにはなりません。修士の最初の年の冬は結構寒かったのです。実験を終えて部屋に帰り、温度計を見ると、1.5度です。電気ストーブをつけて、なんかちょっと暖まった気がすると思って再び温度計を見ると3.0度だったので笑いました。コールドルーム(4度)の方が暖かいわけです。

團先生
その宿舎にはウニの季節にはよく小さな老人が泊まりにきていました。團勝磨。ウニを材料としていて、日本、あるいは世界の発生学者としても戦前、戦後において活躍された、極めて有名な研究者でした。私が来た頃は都立大学をすでに退官されていて、個人で研究を続けられていました。臨海実験所の小さな図書室では取っていない雑誌を團先生は個人で取っていらっしゃいました。助手の先生は当然のように、○○と○○は團さんの部屋にあると言われ、昔から團先生が、自分の部屋の雑誌は利用せよと話されていたのだろうと想像され、科学を通して信じあえるコミュニティができているんだなとうれしく思われたものです。團先生について、科学研究や教育に関するものとして思い出されることはいくつかあります。当時、食事や入浴は海辺の実験所から坂を上ってしばらくいったところにあるコンクリート作りの宿舎で行っていました。風呂場で大学院に入ったばかりであると自己紹介した時は、「研究というのはね、あまり固く構えてやるもんじゃないよ、大変なもんだと思いすぎてはいけない。もちろん、甘く見てはだめだけどね」というようなことを話されました。素人的な自由な発想を大切にせよ、というようなことでしょうか。また、これも風呂場の話ですが、團先生にウニの発生中に見られる何かを私が尋ねていた時だったと思います。「なぜgastrulation(原腸貫入)が起きるのかは、なぜblastula(胞胚)ができるのかを明らかにした者が知ることができるんだよ」と團先生がおっしゃられ、「blastulaになるところを研究している人っているんですか?」と私が尋ねると、「それはキミがやるんだよ」と返されました。おそらくこんなふうに若い人のモチベーションを上げるということをよくやられていたのだろうとその時に思いました。今自分のやっていることを考えると、團先生の言葉が当たっていなくもない。團先生は戦前にアメリカに渡って研究をし、従って英語に堪能で外国人研究者の友人も多く、さらに奥様もアメリカ人で日本ではお茶の水女子大の教授を務められていたということもあり、私はその現役時代を知りませんが、相当に発言力もあったのだろうと思います。そもそもそのような時代に長くアメリカに行ったのも、経済的に豊かな家柄ということが大きかったそうです。私はそのあたりのことはちょっと小耳に挟む程度しか知らず、引退した先生という感じでおつき合いしていたので、あまり緊張もしなくて気楽でした。お金持ちということでしたが(團先生の父親、團琢磨は三井財閥巨頭で戦前の血盟団事件で暗殺されています)、昔語りに、当時の高額紙幣を自分は持っていて、友達は持っていない、そんなとき、うれしそうに「やーい、こんなのもっていないだろう」なんて言ったと話されていました。自分が言えば嫌みになるというより、純粋さが溢れていたのだろうなと思いました。臨海実験所には写真を焼き付ける暗室が一部屋ありました。多くの場合、私一人が使っていたのですが、やはり他の人が使う時もあります。今日は遅いから明日の朝片付けるか、まず誰も使うまい、と思った次の日の午前中に團先生が使っていて、叱られたことがあります。他の人も使うのだぞと。そういうものですね。どんな時でも甘い想定はいけません。
 数年後おそらく動物学会だったか、團先生がシンポジウムで細胞質分裂について話された時に、出たばかりの私の論文(修士での仕事をまとめたもの、実際には博士の2年の頃に出版された)の写真も重要な報告として使われていたのはうれしい思い出です。

修士課程の研究がうまくいかない
さて修士課程で何をやるか。私は当時の助手の雨宮先生が行っていたダイナミックな形態形成に関する研究がしたかったわけです。しかし、制度上教授の先生が指導教官です。形態形成がやりたいと言って、そのようなテーマにしてもらったのですが、肝心の雨宮先生は海外に9ヶ月ほど滞在する予定になっていて、指導してもらうことは不可能です。そんなことがあるので、雨宮先生は私に隠しテーマを与え、大学院に入学するまでの数ヶ月、週末だけ臨海実験所に来て実験させてくれました。万一修士の仕事がうまくいかなくても、これで修士論文はかけるというデータを出させてくれていたわけです。とはいえ、修士の間、自分の仕事が進まないのも嫌です。とりあえず、自分で考えてウニの発生を追います。当時は形態形成には細胞骨格が関係するに違いないとは言われていたので、例えば微小管を見れば何かわかるか、と学生実習の時に身につけたパラフィン切片の作製法を利用して、原腸陥入中のウニ胚を材料に蛍光抗体法で微小管を見ようとしました。今にして思えば、その時購入した市販の抗体は随分出来の悪いもので、ろくに局在がわかりません。原腸陥入は細胞も多く、難しいかもしれないので、とりあえず微小管で出来ていることが分かっている、細胞分裂の際の分裂装置を見てみようと、基礎的なところから始めることを考えました。そして結局は、いきなり多細胞の原腸陥入は大変すぎるので、まずは受精後初めての大きな細胞運動である、細胞質分裂を理解することから始めるのがよかろうと思うようになりました。ツールとしては当時市販され始めたNBD-phallacidinという、アクチン繊維に結合するというキノコ毒に蛍光色素を結合させたもののみ。ただウニではまだアクチン繊維を染めたという報告もなかったので、面白いものが見えるかなーという感じでした。ウニの卵を受精後の様々な時間で固定して染めてみても、あまり細かいことがわかりません。細胞表層が明るいが、いわゆる微細構造が見えないのです。倍率を上げてもボケるだけで詳しい様子が見えません。当時、ウニ卵を使っての細胞質分裂の研究で有名で、三崎の臨海実験所にもウニ採りにしばしば訪れ、私も面識を持っていた、東大教養学部の馬渕先生に尋ねてみると、ウニ卵表層でのアクチン繊維の構築の変化についてはあまりよくわかっていない、そのようなことは米村くんがやってくれるといいんだけど、などとおっしゃる。既にわかっていることではなく、専門家もやる価値はあると認めている。しかし、どうすればはっきりと構造が見えるのでしょうか。すでに修士の2年になっていました。順調な同期は秋の学会で発表するということも聞こえてきますが、こちらは、こんなことをやったが、よく見えなかった、はっきりものが言えない実験結果が出たとか、とうてい学会で発表するに足るようなものがありません。雨宮先生は教授を差し置いて指導することは避けますし、現在の仕事は私が選んだテーマですし。もちろん、可能な助言はいろいろと頂きました。教授の先生の研究テーマについて私はもともと興味がなかったので、指導自体は全く受ける気もなかったのですが、私が行き詰まりつつあるのを見て、教授の持っているテーマに替えないかと誘われました。丁重にお断りしました。

突破口
そのような時、細胞の表層がうまく見えなくてと言っていたら、ちょうど博士課程の1年として臨海実験所に来られた泉水先輩が、表層をスライドガラス表面に貼り付けているわけではないの?と私に尋ねました。表層をガラス表面に貼り付ける!?高校の生物学の教師の経験もあり海産無脊椎動物を使った発生実験に詳しかった先輩は受精の際、受精膜ができるのは細胞表層の表層顆粒から内容物が細胞外に放出されるためで、その刺激はカルシウムである、ということをガラス面上に貼り付けることで単離したウニ未受精卵表層を使って明らかにしたという報告を知っていらっしゃったのです。なるほど、その方法を使えば、細胞質のアクチン繊維に邪魔されず、明瞭に高倍のレンズを使って構造が見えそうです。それで未受精卵から細胞質分裂後まで全て細胞表層をガラス上に単離し、固定後アクチン繊維を染めました。当時、蛍光の退色を防ぐということも当たり前の技術でなく、私は一瞬でフォーカスを合わせ、その後1秒ほどの露光で写真を撮りました。撮影後はすっかり退色しています。また、ネガフィルムに撮影するのですから、現像で失敗したら、撮り直しも効かないため、おしまいです。それでも、今まで見えなかったもの、きっと世の中の誰もがかつて見たことがないものを見るということは素晴らしいことで、興奮しまくって写真を撮ります。これによって特に細胞質分裂の直前からアクチン繊維が特別に細胞表層に集まってくることがわかりました。また分裂のためにくびれる場所ではアクチン繊維が一定の方向に並ぶということもわかりました。

修士から博士へ 修士論文と論文投稿
だいたい修士での仕事の目処がついてきましたが、問題は修士論文を書くこと、そしてその後の博士の進学です。その時は細胞質分裂の仕組みを形態学的に調べつつあるので、それを発展させたいと思いました。その時の指導教官の教授は私が博士課程にいる間に退官なので、新たに指導教官も考えなければなりません。近くで精力的に細胞質分裂の研究を行っている馬渕先生につきたいと考え、相談したところ、動物学科でなく生物化学科の指導教官になっているから、生物化学科の博士になりなさいということでした。実際には修士論文を動物学科と生物化学科と両方に提出して、両方で発表を行えば生物化学科の方の入学試験にもなるのでした。そうなると、修士論文を書くことがとにかくやり遂げなければならないことです。当時動物学教室は修士でも英語での論文提出を義務づけていました。引用するための文献をたくさん読み、さらに全体のストーリーを考え、結果から直ちに言えること、関連がおもしろそうなこと等、リストアップして、とにかく英語の修士論文を書き上げます。提出1週間前には仕上げたいところ、たしか4日前くらいになってしまい、ちょっと遅くなりましたが、と指導教官の教授に添削をお願いしました。しかし、その分量を見て、「こんなにぎりぎりになって持ってこられても困る、要約の1ページだけは直すけど、その他(文章は35ページほどある)はできないよ」とそっけなく言われました。その1、2週間前は「ぼくが、修士論文をどんどん直していけばいいんだよな」などと仰っていたのですが。量が想像よりも多かったのでしょうか。さすがに博士過程進学の試験もかかっているので、あまりにお粗末では進学できない可能性があります。研究内容には自信があるものの、私のオリジナルな英文が充分通用するとはとても思えません。そこで、馬渕先生に泣きつきました。馬渕先生は博士における指導教官になる予定なので、さすがに断るわけにもいかなかったのでしょう。それじゃおいで、ということで、記憶が正しければ、月曜日が提出の締切で、その2日前の土曜日に見てくれました。お昼過ぎに伺ったら(こちらはばたばたして昼ご飯も食べていない状況)、夕方までに私の目の前で解説しながら直して下さいました。研究者の責任感や能力にこうも差があるのかと大いに考えさせられ、馬渕先生から得るところは大きいだろうと確信しました。それから三崎の臨海実験所に帰り、コンピューターに入力し直します。また、当時は写真は全て自分で暗室で焼いて、それを切って修士論文に貼付けていました。動物学教室と生化学科と両方の提出で7部くらいは作ったかもしれません。日曜日は貫徹で何とか月曜日の提出を果たしたわけです。
後日談としてその時の研究を論文にした時の話です。すでに博士の1年になっていたと思います。論文を出した方がいいよと馬渕先生が言うので、修士論文をベースにして投稿してみました。私は修士課程の指導教官であり、臨海実験所の設備や試薬等も使わせてもらったこともあり、避けることのできない義理として私を筆頭著者として指導教官との連名で出しました。もちろん、馬渕先生に謝辞を述べています。これで投稿するまではよかったのですが、やはり直しなさいと返事が来ます。各コメントへの対処は重要に違いないが、論文作製に関わったことのない私一人ではさすがに自信がない。そこでまた馬渕先生に泣きついたのですが、今度は見てもらえません。修士の時の指導教官がやるべきだ。これは全く正しいのです。ただ、その先生は全く内容を理解していないだろうし、理解できないかもしれない。理解したとしても正しく対処ができるかどうかも大いに疑わしく思えて、私は結局、自分一人で対処することにしました。今時あるのでしょうか、経験のない大学院生がほとんど一人で投稿をするというのは。そんなのでも通ったのでありがたい気がしました。最終的には編集者自身が英語については結構書き加えて直して下さり、私は受理後に感謝の手紙を編集者に送りました。私はその後も臨海実験所で訪問者として実験をしますし、まだ臨海実験所にいらっしゃる、修士の時の指導教官に特別反目したいとはまるで思いません。私の単独名での投稿は不自然だし、いくら研究に全く関わらず、研究内容をほとんど理解していないとしても、私の身分を保障し、研究の場所や機材試薬を使わせてもらった、そんなところから、穏便に指導教官の名前は入れておきたかったわけです。しかし、一方から科学研究の正しいあり方からすれば、論文の著者としては不適切かもしれない。というようなことで私の最初の論文は、その内容はともかく、いろいろと難しいことがあるということを痛感させてくれたものでした。できれば、大学院生にそのような苦労をさせない研究環境であることが望ましいのですが。その論文はDevelopmental Biologyに出したわけです。当時、横浜市大にいらっしゃって、毎年三崎臨海実験所に学生実習のために学生たちといらっしゃっていた浅島誠先生は私のずいぶん上の先輩にあたり、初論文をお送りさせていただいたところ、最初の論文がDevelopmental Biologyとは立派です、と葉書を頂きました。当時はおそらく今よりももっと格が高い雑誌という印象だったのでしょう。

博士課程と就職
博士課程についてはかいつまんでいくつかのエピソードを述べるに止め、ここでの話は終えようと思います。研究者を志していく様子は今までの文章でだいたいわかったように思うからです。
 博士課程では馬渕先生の研究室で本当に日常、議論ができる状態で研究をさせていただきました。さらに共同研究者として繋がりのあった月田承一郎、早智子夫妻と知り合いになり、博士在籍中に電子顕微鏡技術の習得のために月田研究室に出入りするようになったという思わぬ展開がありました。もともと形が好きで、つたなく光学顕微鏡でアクチン繊維を覗いていたのですが、ここにきて、最先端の電子顕微鏡技術に触れることができるようになりました。また、臨海実験所でウニのみを使っていた私の世界から離れて、極めて強いインパクトを受けながら別の研究の世界を知ると言う体験でした。どうせやるなら、おもしろいこと、大きいことをやろう、そのためには誰も考えつかなかった着想、あるいは技術的な工夫など、何らかの冴えが必要だ。そういう冴えを私は間近に見ることができ、それまでの人生で最高の知的興奮状態に達したように感じました。「米村さんは人の研究については結構厳しいコメントを言うけど、自分の研究はそれほどではないわよねえ」これは月田早智子さんがそのころ話された私にはグサっと来る言葉でした。私も、博士では修士の延長と考えられる仕事は一つしたものの、それは技術的に可能なことだったということであり、その先は本当に何がしたいのか(一応、細胞質分裂の仕組みということなのですが、具体的にそれでは、どの部分に着目して、何を理解したいのか、どのような実験で白黒はっきりさせるのか、などのことがいつのまにか追いやられて、できることの延長を模索するだけだったようです)をじっくり考えていなかったのです。電子顕微鏡の技術を習い、そのような形態学的データは出るが、それだけではまだまだわからないことだらけです。そもそもできることからしか発想が出てきません。あるとき、電顕用の試料作成をしながら、近くにいた月田さんに、ウニの分裂中の細胞に界面活性剤をかけると、分裂溝の場所以外の細胞表層は剥がれ易いが、分裂溝は残るんですよ、そんな差があるところが結構おもしろい、と話したことがあります。月田さんは当時、細胞間接着装置の単離法を完成させている時だったからか、それなら、分裂溝を単離できるのではないか、それは意味がある、と仰いました。確かに、細胞間接着装置の画分を電気泳動し、バンドを決め、それぞれに対してモノクロナル抗体を作り、細胞間接着装置に局在することが確認されたものを、細胞間接着装置のタンパク質であるとみなして研究対象にする、というやり方を確立していたところだったので、同じように細胞質分裂に重要なタンパク質がバンバン取れる可能性がある、ということです。もちろん、それまでにそのような試み、報告はないわけです。それまで、ああでもないこうでもない、と1週間過ぎたからといって明確な前進がなかった私が、次の週にはこのような条件では単離の状況はこうなるから、安定した純度の高い単離にはこのような因子がこのような濃度で必要、などという確実な前進を始めていました。この研究で博士の学位を取ることができました。私は学術振興会の特別研究員を博士2年の際に応募、DCを1年、PDを1年という形で採用されていました。学位を取った後は、集めた分裂溝画分からモノクロナル抗体をたくさん取ろうとしていましたが、有望なクローンがなかなか取れないという状況で特別研究員を終えることになりました。 
 結局この仕事は、確かに単離できるようだ、将来性がある、というくらいの論文でまとめることになり、私自身はアメリカに行きポスドクを1年務めました。その間に愛知県岡崎にある生理学研究所の教授に月田さんが招かれるということがあり、その研究室の助手ということでスタッフに加えられたというのが、ある程度安定な職業として研究を始めた経緯です。ポスドクはどうであったか、就職してからの研究の方向性など現在に繋がる話もありますが、それはまた別の機会ということにしようと思います。

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